【占星術の歴史】誕生とその起源であるバビロニア占星術

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引用元:http://www.unmeinosekai.com/astrology/history.html

占星術は、バビロニア文化の重要な一派でした。祭司が神々の意志を確認する為の手段の一つとして、主にバビロンとアッシリアで行われていた占術でした。

ちなみにもう一つの方法とは、生け贄となる子羊の内臓、中でも肝臓は特徴によって様々に分類され、36もの肝臓の模型が遺跡より出土しています。。

アッシリア、バビロンを代表するバビロニア占星術の起源、歴史について今回は探っていきたいと思います。

バビロニア占星術の起源

引用元:http://hanataba.cc/kaisetsu/mei/004/

バビロンの歴史

占星術の起源を探る前に、バビロンとアッシリアについて探ってみましょう。

バビロンは、古代メソポタミア王国の主要国家でした。紀元前18世紀にハンムラビが一大帝国を築いた頃に、バビロンは一度目の最盛期を迎え、メソポタミア南部はバビロニア地方と呼ばれるようになります。

ハンムラビの息子の代になると衰退し、バビロンはアッシリアなどの支配下に置かれる事となります。紀元前612年~320年の短い間ではあったが、バビロンは新バビロニア帝国の首都に返り咲きました。

この二つの時期がバビロンの最大盛期であり、人口は20万人を超え、土地は900平方kmにも及びました。現在の広島市、秋田市に匹敵します

アッシリアの歴史

アッシリアはメソポタミア北部に、アッシールという都市国家を作っていました。この時期を古アッシリアといいます。アッシリアは9世紀に鉄製の戦車と騎兵によって勢力を増し、紀元前9世紀にメゾポタミアを統一しました。

さらにエジプトを征服、オリエントを統一し、メゾポタミアとエジプトの二つの文化圏を始めて統一するアッシリア帝国を打ち立てました。

二つの文化圏から生まれた文化をオリエント文化といい、首都ニネバを始めニップール、コルサバードなどからは多くの遺跡が残されています。

占星術の誕生

ここでバビロニア占星術の起源に話を戻しましょう。

大元の歴史としては、紀元前16世紀頃までに、天体の動きに基づく占星術が使用されていた事が『エヌマ・アヌ・エンリル』という参考文献の編纂で証明されています。

天文現象と出来事の記録から関連を見い出し、その数は7,000の「前兆」として、70枚の楔形文字により
粘土板に刻まれました。バビロニア占星術の誕生は、約4000年前まで歴史が遡ります。

もう1世紀前のシュメール国家時代に、占星術が使われていたいう学説がありますが、それを立証する記録が明確に残されていないので、やはりメソポタミア後期~中期が占星術の歴史の始まりとされています。

バビロニアでは天文学、数学が発達していた為、天体の動きと、地上の出来事を結びつけられると
考えられていました。ただ、最初の頃(紀元前7世紀頃)のバビロニア占星術は、天文学の技術がまだ未発達だったのもあり、特別な地位を占めるまでには至りませんでした。

本来であれば天体の動きを予測し、天体の動きと地上の出来事紐付けて考えるのが占星術です。

しかし、この時期は天体の星の動きの予測がまだ正確に出来なかった為、何か大きな事件が起こった時や
その少し前の天体の位置で占われていました。

天体の位置が正確に計算され、予測出来るようになったのは紀元前4世紀頃です。この頃には天体暦が作られ、バビロニア占星術の礎となりました。

占星術の基礎となる天文学

引用元:https://gigazine.net/news/20110817_astoronomy_discoveries/

バビロニア占星術の歴史は、同時に高度な数学に裏打ちされた天文学の発展にリンクしています。

バビロニアで天文学が進化したのは、紀元前2000年前から紀元前400年の間でした。当時はまだ天動説で天文学が解釈されていましたが太陽、月、太陽系の惑星の公転の周期を解明したり、黄道を周期的に回る星の固まりを発見し、黄道を12分割した黄道十二宮として考案されました。

この黄道十二宮はギリシャに伝えられ、現在の日本でも使われる十二星座の元となりました。また、惑星の不規則な軌道から、それを「前兆」と定める占星術に使われるようになっていきました。

バビロニアの天文学は聖職者も兼ねており、当時は地上のすべての出来事がすべて占星術で統べる事ができると考えられていました。そして、バビロンにとって絶大な力を持つのがマルドゥク。バビロンの神でありました。また、マルドゥクは木星の神でもありました。

この木製の軌道を求める計算式が、後に14世紀にヨーロッパで使われていた手法と同じ、という事が2016年に明らかになりました。バビロニアの天文学、数学の水準がいかに高かったかを示す、歴史的なニュースになりました。

さて、当時は天文学と占星術はほぼ同義のものと考えられていました。星の動きで地上の全ての出来事を
統べる事ができる、というのもその考えの現れです。

特に歴史の大きなサイクル、例えば大王が死んだときに天体が直線状に並んでいたとすると、今後同様の天体の動きがあった場合、貴人にまた死が訪れるかもしれないと考えたのです。

夜明け前の地平線に見たことのない星が現れたり、今まで山頂に見えていた星が見えなくなったりという事に非常に興味を持ちました。天体の動きが何がの前兆と考えられていたのと同様で、それが何かの暦月になると考えられていたのです。

天体と神々の関係

引用元:https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%AF

木星のマルドゥクと、他の惑星の神々

バビロンの守護神はマルドゥクであり、この神はバビロニア占星術では惑星木星として認識されていました。マルドゥクは最も強力な神として認識されていましたが、唯一無二の神ではありませんでした。バビロニア人は多神教であり、異なる目的を持つ多くの神々を信じており、特定の神々を特定の惑星に関連付けていました。

この頃にははホロスコープ占星術を用いていました。占断される人は、時間を通して空間を観察し、月食などの不吉な出来事を、奇形の子供を産むなどの日常生活の側面における社会的、政治的、環境的な問題と関連付けることで、将来の状況を予測しました。

彼らは、自分たちの神々の活動が自分たちの生活に影響を与えると信じていたのです。

これらの天変地異は、太陽、月、惑星の影響力を利用した生活への神の介入であり、悪い出来事や良い出来事が起こる時に伝達するものと考えてられていました。

人々と結びつく5つの惑星

太陽、月、惑星を神々と結びつけることで、自分たちの人生を生き、自分たちの周りの世界を見る方法を形作ったので、ホロスコープ占星術はバビロニアの信念にとって重要です。

セロウコス朝のとタブレットからのホロスコープと出生前兆の間の類似性は、バビロニア占星術における、惑星の有益な性質と悪質な性質を示しています。バビロニア人は、それに関連付けられた神の性質に基づいて、惑星の周りに関連づけられ、彼らの信念を作成しました。

惑星のうち、5つの惑星が認識されていました。木星、金星、土星、水星、火星。古い楔形文字の文献に登場する順番でそれらに名前を付けます。

これら5つの惑星は、次のようにバビロニアのパンテオンの神々と識別されました。パンテオンとはギリシア語のPan (パン)”全ての”、theos(テオス)”神”より由来し、”全ての神々の神殿”という意味で、様々な神々を祀る万神殿でした。

木星とマルドゥク。女神イシュタルとの金星。ニヌルタ(ニニブ)と土星。水星はナブ(ネボ)と一緒に。火星とネルガル

太陽、月、五つの惑星の動きは、月の神シンと太陽の神シャマーシュとともに、地球上での出来事を準備するための五つの神々の活動を表していると考えられていました。したがってこれらの力の活動を正しく読み解くことができれば、神々が何を起こそうとしているのかを知ることが出来ます。

バビロニア占星術の解釈

引用元:https://xn--n8jucyg9fmit67qk0ag38djw2geh0a.com/uranai581.html

バビロニアの祭司たちは、天界で観察される現象の解釈のシステムを完成させることに専念しました。解釈自体は、主に2つの要因に基づいていました。1つはアイデアの連想です。

曇り空の新月の出現の時、大雨が降ったりした時に敵に勝利した場合、その兆候は好ましいものであることが証明され、以後、その再来は吉兆とみなされることになりました。

一方、新月の出現が予想よりも早かった場合、敵に敗北、家畜の市、不作の予言など、早すぎるものは好ましくない物とみなされました。

実際に起こったからというわけではなく、早すぎるものは好ましくない出来事を示唆するという考えの連合に基づいた一般的な原則の適用によって、好ましくないものとみなされました。

このようにして、観察された解釈の塊が集められ、一度集められたものは、いつでも司祭たちの指針となりました。しかし、これらの考えのすべてが今日でも、占星術に使われているわけではありません。

初期の占星術の限界

初期のバビロニア占星術には、3つの限界がありました。

①「天命占星術」としてのみの占星術。

初期のバビロニア占星術の最初の限界は、天体の動きや位置が個人の占断にはいたらず、国家の戦争、反乱や飢饉、自然の氾濫などの公共的に重要な事のみを示しているという事でした

近代のホロスコープ占星術にたどり着くまでには、700年ほど時代が進み、ギリシャの支配下にあった
エジプトでホロスコープが用いられるまで待たなくてはいけませんでした。

バビロニアとアッシリアでは、個人の運勢よりも何より国王の幸福が重要視されていた事と、神々への好意が国の運命を左右すると信じられていたからです。

②天文学の精度の限界

第二の限界は、バビロニアの天文学は長い歴史と高度な数学に基づいていたにも拘らず、観測技術において限られていて欠陥があったことです。

天文学の歴史で述べたとおり、バビロニアでは太陽、月、惑星の公転の周期を発見し、黄道(地球から見た太陽の起動)を周期的に回る12の星座(黄道十二宮)の存在の発見と、各星座が王道に対して30度の角度を持つ理論は、バビロニア起源であることが証明されています。

しかし、紀元前539年にアケメネス朝のキュロス2世に征服され、新バビロニア帝国が滅ぶまでに完全な天文学の完成の芽が開くことはありませんでした。

バビロニア天文学の黄金時代は、最近まで考えられていたような遠い過去のものではなく、紀元前300年になって、セレウスキス・アイ・ネイターがアンティオキア市を設立した後に属するものです。

紀元前7世紀以前の占星術の書物に日食と月食の計算の記載があり、着手されたのはその時代と思われますが、ここでも主な成果は紀元前400年以降のものであり、紀元前600頃では、年の始まりの計算に丸一ヶ月の誤差が生じていたことから、初期バビロニア天文学の欠陥を見出すことができます。

早い時期より、天体の動きが政治に与える影響は大きく動物の肝臓の検査よりもはるかに高いレベルの
影響力を持っていいたに違いありません。

しかし、観測できる物の変化、正常な状態と、判断されたもののからの逸脱がある事が重要視されていた為、祭司が純粋に実用的な目的のために必要とされる以上に、天文学の真剣な研究は長い間妨げられていました。

③星座の数


第三の限界は、現在私たちが認識している星座が紀元前700年以前のバビロニアの天文学の記録に殆ど残っていなかった点です。黄道十二宮の発見はバビロニアの天文学者の発見であることは前述のとおりですが、そのほかの星座を発見したのは紀元前1000年頃のエジプトの天文学者です。

エジプトはおおいぬ座のシリウスの発見から、黄道沿いに36の星座を創作しており、星座においてはバビロニアの天文学者に大きなアドバンテージを持っていたといえます。

現在の占星術への道程

引用元:https://horoscope777.com/wp/%E5%8D%A0%E6%98%9F%E8%A1%93%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%92%E4%BD%9C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%82%88%E3%81%86%EF%BC%81/shoshinsha

ヘレニズム文化のホロスコープ占星術

紀元前330年、アレクサンダー大王がギリシャ、エジプト、メソポタミアなどを制圧し、いわゆるヘレニズム文化の時代が始まりました。その中心がエジプトのアレクサンドリア、ここが現在の占星術のルーツとなるヘレニズム占星術の生み出す拠点となりました。

エジプトでは、世界初のホロスコープによる個人と惑星の動きを紐付ける占星術が確立されました。15年頃には現存する最古の占星術理論書が、ローマの詩人のカリウスによって上梓されました。

しかし、ローマ帝国衰退期の中、キリスト教が公の宗教になると半占星術の動きが高まっていきます。生まれた時の惑星の位置で個人を占うというのが、人間お自由意志の尊重をさまたげると、多くの学者がおおむね占星術を批判しました。星は個人の動きをそこまで強いるものではないと。そのため5世紀以降、占星術についての動きは殆ど見られなくなってしまいました。

第一次復興期

長い時を経て、占星術が復活したのは12世紀、ルネッサンスの時期です。占星術の占術がインドやアラブに引き継がれていきます。それにあわせて合わせてギリシャ語の占星術の書籍がラテン語に翻訳されます。

12世紀には現在の大学に当たる組織が誕生しますが、そこで占星術は教育科目として採用されていきます。占星術は新しい場所で、新たに息を吹き返します。

衰退期

しかし、17世紀に入るともう一度占星術の地位を脅かす革命が起こります。科学革命と呼ばれる、占星術の宇宙観(天動説)を否定する、コペルニクスを中心と知る地動説派は、占星術を古い考え方として表舞台から消してしまうことになります。

第二次復興期と、現在の占星術

引用元:https://shakti-b.jp/senseijutuapuri/

ここから占星術が活力を取り戻すのは18世紀、「神智学」の宇宙観を得て、新しい歴史を持つ事になります。占いと心理学が融合化した事で、占星術は、自己成長のツールとして生まれ変わることになりました。

かつての占星術がよりンプルなものへとかわり、より皆様が手軽に占えるようになりました。パソコンやスマートフォンですぐホロスコープが作られ、結果が出るようになっています。それにより、単に占星術に関心を示すだけでなく、実際に学んでみようと思う人が、沢山増えていきました。誕生したのが4000年前の占星術への関心は途切れることなく今日にまで至っています。皆様も中国の歴史より古い占星術に一度は触れてみませんか?

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